つくる、ということ

知人が面白いつぶやきをtwitterに投稿していたので非常に勝手ながら転載。
もし不快なら即削除します。(って次授業で会ったら言っておこう。)

  • 深夜だしつらつら書く。今日久々にあった旧友は大学4年間をアメフトに費やしてとても貴重な時間をおくった人だったんだけど、一方で文化系への憧れもあったらしい。大学で広告やデザインや文学をやっていた人たちに羨むような口ぶりだった。自分も何かクリエイトしたかった、とか。
  • 彼は元々村上春樹とか好きだったし本に興味もあったのでまあ、何でもいいなら小説書けば? 誰にでも開かれているし、特に技術もいらないよw と言っていたけど、小説さえも何だか小難しい何やらが必要な気がして身構えてしまう、てかやっぱもういい、と言っていたのでそれそれでいいと思うw
  • ここからは彼を離れて。にしてもクリエイトってのは何なんだろうね。広告はもちろん作って出来上がるものだし、デザインにしたってそうだ。小説も、一般的にそう呼ばれているものは本という体裁をとって書店やそこらに並べられてたりしているレッキとした創作物だ。
  • じゃあモノを作ればクリエイトなのか。何かクリエイティブなことがしたいという人をよく見かけるけどそれはモノを作りたいってことなんだろうか。実用的な機械だとか薬品だとかそういうものを作りたいという人もそれはいるだろうが。
  • 先の彼にしろ、オタコミュ界隈でよく見る何かを作りたいという人にしろ、それは何か創りたいってことと同じ程度には何かを表現したいってことではないのかな。創ることは大きく取れば表現に含まれるかもしれないが、あらゆる表現は創られて形となったモノには還元されえない。物質的な明確なモノには。
  • 表現と創作制作物を同じに見てとるような考え方はあまりしたくない。表現というものをもっと広く捉えたい。そして表現なんてものは創る創らないなんて意志に関わらず立ち現われてしまうものだろう。だからあらゆる言葉は表現であり、それは創造物の形をとるにしろとらないにしろ押並べて創造的だ。
  • だから頭の中のモノローグでさえも表現だと思う。つまり俺から言わせればみんなどうしようもなくクリエイティブ。ただみんなそういうことをしたかったわけじゃないんだよね。やっぱり伝えられるものとして形にしたり、他人に伝達したかったりするわけか。
  • 結局はそれってコミュニケーションしたいんでしょ、何かクリエイティブなことをして、と思う。やっぱりそこには違和感がある。表現を通してコミュニケーションを図るのは至極まっとうだと思うけど、それに全てが回収されてしまうような考え方は嫌だ。いや、コミュニケーションという言葉はよくない。
  • 汚い上に語義が曖昧過ぎる。別に何も他者をジェノサイドしろとかそんな話がしたいんじゃない。自己も他者なのかとかそんな話でもない。とにかく、表現をコミュニケーション的な文脈でとらえられ過ぎているような気がしてダメなんすよ。とにかく、常に表現しているにも関わらず表現したいこと言う。
  • そういう認識の上に立てばもうちょっと話は広がるんじゃないかと、思わされる人たちがよくいるということか。何だかんだでくだらないことを書いてしまったがもう仕方がない。寝るか。明日の1限死亡フラグ
  • 追記、表現した(と思った)人がいたら表現なされているし、また表現された(と思った)人がいたならそこにも表現はある、またその後表現する主体を措定することが可能になる、という前提。

(投稿者:u_Re_sabo/夕莉さぼ 2010/1/6 03:28:20〜04:36:18のツイートより転記)

ここからは個人的な意見。
自分も常々、「俺の頭ん中にあるアレやコレや、見える形に表現してぇなー」と妄想しているタイプの人間なので興味深く読ませてもらった。
以下は話の趣旨というか主題から大幅にそれている意見かと思うけど、死ぬほど暇であれば読んで貰えると幸い。
あとニコ動脳のクソニコ厨の妄言なので、「ニコ厨死ね!ニコ厨爆発しろ!」と思ってる方は読まない方が吉。
(……まぁそういう方は俺のブログからしてニコ臭くて読めたもんじゃないと思うからいないとは思うけど。)


表現というものには三つの役目があるのではないか、と思う。


まず、表現とはコミュニケーション手段であると思う。
自分の内部に持つ情報を他人と交換するための手段。
ここで例に出てくるのはニコ動やyoutube。うp主は何らかの動画どいう形で情報を発信し、
視聴者はそれに対してコメントを残す。
うp主←→視聴者は必ずしも双方向でなく、ある視聴者の残したコメントを別の視聴者が見てまだコメントを残したりする。
けれどそこには一つ(あるいは一連)の動画、またはうp主を中心としたコミュニティが出来上がる。
コミュニケーション主体のWebサービスSNSと呼ぶのなら、ニコ動は非常にSNS的ということになると思う。
あるうp主はどういう反応が貰えるだろうかと期待しながらうpするかもしれないし、
または「俺の動画面白いだろう!」と渾身の動画をうpする人もいれば、
「こんなつまらないクソ動画上げたらどれだけ叩かれるだろう(ビクンビクン」、
「この動画見た人が製品版どんぐらい買ってくれるかな」、
「釣っておまいらの反応を見てやるぜ!釣られた奴くやしいのうwwwくやしいのうwww」という人もいるかもしれない(というかいる)。
まぁでも、共通しているのはやはり他人に見られ、その後の反応を見るという点である。これが一つ目。


二つ目の役目は、自己の複製保存。
種族が絶えないように肉体の複製を続ける(つまり子孫を残す)のと対照的に、
自分の子孫といえど肉体的にも精神的にも完全なコピーではなく(むしろ多様性確保のため異なった部分は必ずある)、
人間には自己保存の欲求もあるので、常に自分の写し身を求めている。
そして表現された物とは自分の一部である。自分を想起させる何か、である。
人々はその表現された物の中に自分の影を見つける。
それは当然自分のコピーではないけれども、何も残さなければゼロだ。だから表現したがる。
逆説的に、言語を含めたあらゆるコミュニケーションは表現である。
だから、普段の何気ないコミュニケーションの中にその人の影を見ることができ、
もしある人がいなくなっても、その人の仕草、口調、声、表情……あらゆるコミュニケーションで、その人を思い浮かべることが出来る。
ミームという言葉に最近ハマっている自分だが、まさに表現(された物)はミームの媒介物となるものである。


第三の役目は、単純に情報保存の手段。
メモ然り、ニコ動に連日数多アップされている「誰得?」と言わざるを得ない動画然り、外部記憶装置としての役目。
表現の手段にも依るが、アナログな物として残しておけば五感全てのバックアップとして機能し、
デジタルの形で残し然るべき管理をすれば半永久的に消えることも劣化することもない。
人間は忘れないように外部に出力するという機能があるのである。


以上の三つが表現者の中で様々な度合いで混じり合い、何かを生み出す原動力となるんじゃないか、と思うわけです。
例えば、俺。
今最も作りたいと思っているのは動画。
まずコミュニケーションとして、ニコ厨共と一緒になって笑いたい。
俺が楽しい動画を作る。ニコ厨共が「ちょwwww」だのなんだのコメントしてくれる。たまらない。
そして外部出力の役目。
これは分かりづらいかもしれないけど、動画作成能力を具現化したいということ。
動画を作れば動画作成能力が上がる。その能力は作品という形をとって貯蓄される。
そして一番の理由は自己複製。
もう妖精まっしぐらの俺に肉体の複製は無理です。諦めました。無理ゲー。積んでる。
なのでせめて自分の中にあるものをぶちまけて、いつ死んでもいいよう俺がいた証拠を残しておきたいわけで。
こういう気持ちが混ざり混ざってドス黒い何かを作ってやろうという気持ちに向わせている気がします。


少しだけ真面目にいろいろ書いてきましたが、これは全て俺の中での話なので、
表現の役割なんて三つじゃ足りないかもしれませんし、逆に三つもいらないかもしれません。
プロの作家とかどういう気持ちで創作・表現活動に勤しんでるのかわかったもんじゃないですからね。
素人の痛い痛い妄言ということで、この辺で見逃してくだしあ。





あーやっべ、これ絶対黒歴史入りする気がする。きっとする。というか今書き終わった時点で消したい。
でも外部保存だからね。自分がいつ、どう思ってたかってすごく大事なんだと思う。
未来の俺がこの文章を見て、過去の俺とコミュニケーションするんだろうなぁ。
この文章は未来の俺にどんな影響を与えるんだろう。